アンテナの歴史カフェ

第3回 ニューマン文書の行方(2)

昭和61年、旧日本陸軍技術少佐であった山田愿蔵氏より頂いた手紙には、

「シンガポールでYAGIアンテナの資料を見付け出したのは、戦友の塩見少佐という方でした」

という記載があった。

幻のニューマン文書の一端が、ようやくぼんやりとその姿を現わしてきた。
ここで、塩見少佐の消息が問題となった。

前述の山田氏に問い合わせたところ、塩見氏は早稲田大学の出身であるため塩見氏と同年代の早稲田大学OBに尋ねたが、塩見氏はすでに亡くなられたとの噂を聞いている旨の返信を頂いた。

なお、この山田氏からの返信には、

ゴミ箱から塩見さんが見付け出した取扱い説明書はSLCという資料で(中略)、日本の陸海軍の電波兵器関係者がYAGIアンテナが英米で有効に使われていることを知ったのは、上記SLC資料が資料としては初めてであったと想像します。占領器材として知ったのは、マニラ占領(昭和17年1月2日)の方が先ではなかったかと想像します(これは英軍の器材ではなく、米軍の器材であった)。

という情報も記されていた。

月日は流れ、昭和63年、早稲田大学の同窓会名簿と電話番号案内とをもとに塩見氏の消息に関する噂の検証作業をしていたところ、噂に反して塩見氏が健在であることが判明した。
早速、塩見氏を訪問し、ニューマンのノートについて尋ねた。

塩見氏によれば、ニューマンのノートを発見したのは塩見氏ではなく、旧日本陸軍防空学校の秋本中佐とのことであった。なお、これは塩見氏の記憶違いであり、松元泰清中佐が正しいことが後になって判明した。

松元中佐は、シンガポール陥落直後の昭和17年春頃に同地を通過した際、イギリス軍の高射砲陣地のあったゴルフ場の塵芥焼却場において、投げ棄てられていたノートを発見した。このノートには図面や電気回路がたくさん記されており、当時、兵器としてイギリスやドイツなどで開発後にアメリカで高性能化され、日本の軍関係者が非常に注目している電波兵器、レーダーに関するものであることが分かった。このノートの重要性を認識した松元中佐は、電気工学を専門とする塩見少佐にその解読を依頼した。

塩見少佐による解読により、ノートには敵が最も秘密にしている電波兵器の一部が記載されており、参考資料としての価値が大きいことが判明した。

旧日本陸軍では、このノートを写真撮影し、また英文タイプに打って謄写印刷により何部かを作成した。これがニューマン文書と称されるものである、と塩見元少佐は語った。

このようにして制作された何冊かのニューマン文書は、その後どうなったのであろうか。私(佐藤源貞)はニューマン文書の配布先を塩見氏に聞いたが、分からないという答えが返ってくるばかりであった。

「忘れた」のではなく「分からない」のである。おそらく、塩見氏はニューマン文書の行方を知っているのに違いない。あるいは所持しているのかもしれない。そう思いつつ、私は何度もニューマン文書の配布先を聞いた。しかし、何度聞いても「分からない」の一点張りである。それに応じて私の口調は激しくなって行き、ついには尋問の様相を呈してきた。

塩見氏は、私の熱意に負けたのか、突然よろよろと立ちあがり、別室に退いた。待つこと暫し、何か古ぼけた書類のようなものを持って出てきた。この古ぼけた小冊子の表紙には「ニューマン文書」の文字が大きく印刷されていた。

つづく

参考資料:
里文出版『アンテナ物語 その歴史と学者たち』

〒337-0011 埼玉県さいたま市見沼区宮ヶ谷塔4丁目72番地
TEL 048-685-1300 FAX 048-685-2301

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